オーシャンの独り言

     
MONOLOGUE 1
 


  EGUSA Rice

作は専門家がするものと考えるのが妥当なところでしょう。しかし素人の僕たちにもやって出来ないことはないのです。それが今回の "EGUSA Rice" です。尤もらしく勝手にそう言っているだけのことですが・・・ 。
現役の頃は農政、米価審議会、減反、冷害、大規模農家、三ちゃん農家、ウルグアイランドなどなど行政面や現象面に目が向いていたものでした。今や日本の自給率は40%になってしまいました。誰もそれは見ていないのでしょうか。どこへ行ってもファミレスはある、蕎麦もラーメンもコンビにまで食料調達は可能で豊かな食生活を享受しています。僕も例外ではありませんが、もし輸入が止まったらどれくらいの人が餓えるのだろうなどと考え込むのは間違いでしょうか。稲作は大規模に移行、株式会社参入まで言われている反面、消費者直結の有機栽培や減農薬農家が結構あると聞きます。年をとったら田舎で農業をやりたい農業未経験の人たちが増えている傾向もあると言います。時代の流れでしょうかスローライフがモテモテですが、本業にする事は大変な事です。

れはさておき、僕が米を作る事になったのは山梨の山間の村で、田舎体験を提供しているクリエイティブ・ハウス江草と言う所にはまり込んで米作り体験がきっかけでした。その居心地の良さにどっぷりと首まで浸かっている中で、体験を通して自分で一から米を作ってみたいと言う気持ちがだんだんと膨らんできました。理屈をつければ都会に生まれ育ち、土と触れあい作物を育てる事に縁が無かった生活と、農作業はお天道様次第、自然と向き合う生活サイクルに魅せられたのでしょう。ある日僕も自分で米を作りたいと言ってみたら。なんとなんとすんなりと受け入れてくれたのでした。貸してもらったのは四畝の田んぼです。一畝が30坪だから120坪、396平方メートル。都会では建て売り住宅が4、5軒分建つ広さ、なんか我ながらみみっちい比較だなあ。

 不耕起農
玉町に無農薬で不耕起農法を実践している三井さんと言う方がおられます。まずその講習会に参加する事から始まりました。。三井さんの所のお米や野菜はとてもしっかりしたものが採れると評価が高いので、各地から様々な人たちが講習会に集まってきます。まず種籾を塩水に入れ沈んだものだけ使います。次に田んぼの一角を平にならして種籾を蒔き、種同士がくっつかないようにしてふるいで薄く土を被せ押さえます。その上に藁を被せて発芽させます。簡単なようですがとても繊細な作業でした。僕達には同じ方法はとてもできません。直播きですが長方形の苗床に種籾を蒔いて土を被せてシートで覆い発芽させます。種籾はコシヒカリです。今では農協が有料で苗の育成を請け負っています。農家は田植えをするだけ。いやいや、田植えの請負も有るらしい。農協もあの手この手でいろんな商売をしています。

作業は育苗から始まりますが、春先田んぼに水を流す前に地区ごとの農水路の整備を共同でします。夏には用水路の草刈りもあります。田植えまでに畦の補強や草刈りをします。この頃から田んぼのレンゲは咲き始め、田植え前には真っ盛りになり、このレンゲが稲の肥料になります。レンゲは盛りの頃に刈り取られ田んぼに水を張り醗酵させます。暫くするとプクプクと泡が出始め、辺り一面にガスのにおいがしてきます。昔良く言われた田舎の香水です。十分醗酵したら代掻きをしていよいよ田植えです。我々のところは5月の終わりから6月の初めにかけて行います。仲間が集まってわいわいがやがやとにぎやかに田植えを楽しみました。苗の茎は断面が楕円形で丸くないのですね。育つと丸くストローのようになるのですが、その1本の苗がものすごく沢山分けつ(株分かれ)します。葉が5〜6枚になると根もとから新しい茎が育ち、20本前後になるまで続きます。すごい生命力です。分けつが終わった頃にゴロ掻きをします。田の草取りです。日をおいて2度やります。これで後は稲がすくすくと育つのを見守ります。

 天候次第
が出て花が咲き受粉する時が稲にとって一番大切な時期です。この頃に天候不順だと実が入りません。2006年は梅雨明けが遅くなり、相次ぐ台風の襲来でヤキモキしましたが、我々のところは台風もなんとか凌ぎました。真夏の暑い盛りにした田の草取りも共同用水路の草刈りの苦労もたわわに実った田んぼを見ると「豊作だぁー」と叫びたくなりましたが、残念ながら今年は穂首イモチに罹り実の入ってない穂もありました。一畝当たり60キロの収穫が標準ですが、僕の田んぼは4割減収でした。今年もコシヒカリの他に黒米と2種類の赤米を少しづつ作ってみました。原種に近い古代米は天候不順にも強いですね、しかも美味しいので田んぼで天火干しをしている3種類の米のうち黒米だけを鹿が夜中にそおっと食べにきます。鹿と言えば猪、今年ほど猪に田んぼを荒らされたのは初めてでした。稲刈りしている最中も瓜坊が4頭逃げ回っていました。さて古代米入りの御飯は、黒米を混ぜるとお赤飯みたいになり、赤米はほんのりピンク色で桜の花を一緒に炊いたみたいです。そして米作りの1年は、年末の餅つきで締めくくりです。
自分で作った美味しい新米を毎日食べられるなんてとても贅沢で幸せな事です。そして農業は本当に天候次第を実感しました。毎年3月下旬から作業が始まります。一年一年、経験の積み重ねですが、それをベースに毎年工夫を重ねて行こうと意欲的です。体力的に70歳までは米作りが出来るのではないかと思っています。

 
             
     

   
             
         
             
         
             
     


return

   

 

 

      MONOLOGUE 2  

 湘南 
SHONAN
Walk
子に移り住んでから、多くの人が「湘南」という言葉に拘りがあるのを知った。いつ頃からそう呼ぶようになったのか、多くの故事来歴を証拠に提唱しているし、何処から何処までが「湘南」の議論は多々されている。反面、そんな事はどうでも良い、ちゃんと地名をと主張する考え方も一方にはあると聞く。車のナンバープレートの区域にも一悶着あったのは記憶に新しい。だが、イメージとして定着したその言葉を使う時、行政区域にそれぞれ分かれている事が湘南を何処から何処までと限定したくなるのかも知れない。

 相 模 の 国
く大化改新後、地方の国々の再編成で相武と磯長の国が統合され相模の国となり、時代の流れの中で鎌倉に幕府が出来た。公家政治から武家政治へ大変革したその時代、武蔵の国以南、伊豆半島の付け根当たりから三浦半島まで広い範囲を相模の国と称し、鎌倉が幕府として脚光を浴びたのは150余年。その相模の国の相が転じて湘になったとか、その時代中国から渡来した人たちが、故郷にある地域名称をよく似たこの地域にあてはめて使ったのがそもそもの始まりらしいと言う説もあり、現在高麗と言う地名が大磯町に残っている。ヨーロッパから新大陸に移り住んだ人々が故郷と同じ地名を付けたように。その後「湘」と言う字は湘北、湘央、湘岳など地域を指す呼び名として相模の国に広くあったと言う。

馬遼太郎(1923〜96)「街道をゆく」の三浦半島記(朝日新聞社編)には、中世鎌倉時代を軸に近代までを語った記述の中に、『三浦半島のみうらは奈良朝の頃までは御浦と呼ばれ、今の横須賀海岸を指し、ただの浦ではなかったようだ。日本書紀に相模の国の国司が、大和の朝廷に御浦郷を誇らしげに語った逸話がある。平安時代になると三浦と記述され、この辺りを支配する武士集団が三浦姓を名乗った。三浦姓の中でも佐原あるいは和田と、所領する地名を名乗る時代で、ヨーロッパのユンカーやジェントリーに共通する』と述べてあり、地名に関して実に明快である。話は近代にも触れていて、挿話の中で『大正から昭和初期にかけて、海軍士官の多くは、鎌倉や湘南地方に住んだ』と当時の軍港横須賀基地に属する海軍将校らエリートの居住指向の表現として使われているのみで、繰り返し同様な記述が別項でもあるが、そこでは『鎌倉、逗子などに』と地名を明記し湘南と言う表現を控えている。察するに鎌倉も逗子も大雑把に一括りで湘南地方、それに鎌倉以西も含まれるので、その地域を指す曖昧な言葉は、個々に解釈が違う事に気づかれたのかも知れない。

 僕 の 湘 南
人に習って、湘南と言う言葉を僕は使いたい。語源は諸説紛々だが、それが大まかに地域を呼ぶ総称であるとすれば「何処までが湘南」と言い切ってしまうのはナンセンスと思うのは僕だけかしら。例えば、仮に逗子から茅ヶ崎までを「湘南」と呼ぶとしよう。逗子の隣 葉山、茅ヶ崎の隣 平塚、それぞれの目に見えない行政区域の境を越えたら「その先は湘南ではありません」と言うのはとてもおかしな事、海も海岸も大地もそして歴史もそれを越えて続いているのだから。大磯町の国道1号線沿いに湘南発祥の地の碑がある。1664年にこの地、鴫立沢に草庵を結んだ宗雪が建てた標石に「著盡湘南清絶地」と刻まれていることかららしい。「湘南」はそう呼ばれる地域を個々が想像するイメージの言葉であり地名ではないから僕は、昔相模の国と呼ばれ海に接しているとても広い範囲を大雑把にそう呼べば良いと勝手に思っている。僕の湘南は、住んでいる逗子を中心に広くてとても曖昧なのだ。このサイトにある湘南は見ていただいた人が思う湘南とは違うかもしれない。だからこそ僕の湘南なのだ。

 
             
           
             
         
             
         
             
     
return
   
 
      MONOLOGUE 3  


 カナダ CANADA

事抜きの海外は今回が初めてでした。カナダツアーに参加したのです。
ツアーの内容を見ると、以前カナダ政府から日本へ派遣された英語教師Mr.Dがカナダでの受け入れ先で、一部を除きすべて現地ではホームステイになっていました。普通の観光ツアーでは経験出来そうもないオプションが含まれていたのです。そして、とても少人数のツアーなのも気に入りました。「面白そう!行ってみよう」すぐに決めてしまいました。リタイア目前のことでした。沢山残っていた特別休暇をすべて使おうと、これをきっかけに勝手に長期休暇に入ることにしました。

ナダは行ったことが無く、ナイアガラの滝やカナディアンロッキーとかモントリオールの国際ジャズフェスティバルくらいしか知識が無く、恥ずかしながら全く「富士山、芸者」と同じレベルでした。しかし、ベトナム戦争の頃、隣のアメリカから多くの若者がカナダに逃れた事は遠い記憶の中にありました。そして先住民族はどこへ行ったのだろうという「?」マークもカナダへの興味の一つでした。SARS問題にに火がついた頃で、行くのを見合わせた人もいました。

 Wolf Den
初の数日は、アルゴンキン州立公園内のウルフ・デンというコッテー ジに泊まり、いくつかのハイキングをしたり野生動物のレクチャーを受け たり自然満喫デーを楽しみました。その後、ロンドンやMr.Dの故郷エルマイラで彼の友人や親類の家にホームステイしながら、オーガニック牧場や 特別な教育理念で運営されている学校の見学、メイプルシロップの樹液採 集体験などあまり通常では出来ない体験をしてきました。こういう場では 差し障りがあるのであまり話たくありませんが、キリスト教の宗派で昔な がらの生活を保持している宗派でアーミッシュとメノナイトがありますが 、その中の男の人がどちらに属しているか見分ける方法。頬、顎、鼻下全 部にひげを生やしているのがアーミッシュの男性。頬には生やしていない のがメノナイトの男性。それは実はMr.Dなのです。彼はメノナイトでその 中でもとても進歩的、革新的で、その世界から飛び出した人物。彼のおか げでメノナイトの人が経営する農場でメイプルシロップ採集体験など出来 たのです。

うそう、アルゴンキンまでの街道沿いにとても有名なハンバーガー屋さんに寄りました。支店を持たずここ一軒だけで営業しています。客車が数 台置いてあり、注文後その中に持ち込み食べることができます。車内はクラシックな感じでとても雰囲気がありました。もう一つ面白かったのはトロント市内に食事のスーパーマーケットがあり、お盆にお皿を乗せてものすごい種類と量の好きな食べ物を選べるレストランにも寄りました。とても繁盛していました。ここであるコーナーの従業員が話す言葉が一言も聞き取れなかったのでした。一つの語から十を勝手に理解してしまうような僕の英語ですが、何回聞き直しても本当に一言も理解できなかったのでした。会話ってほんとに難しい。

 Glenn Gould
ナダと言えば、モントリオールはオスカー・ピーターソン、トロントはグレン・グールドの故郷。ジャズとクラシックで対照的ですが、どちらも 少年時代からクラシックピアノを弾き始めた天才的なピアニスト。オスカ ー・ピーターソンはライブ、グレン・グールドはレコードと活動スタイル も対照的でした。今回はトロントのグレン・グールド・スタジオへちょろ っと寄ってみました。あいにく休館日でその一部だけでしたが、小さなホ ールのロビーには少年時代に使ったピアノやリリースしたレコードジャケ ットの展示がありました。
Mr.Dはヴァイオリンの名手で住んでいる街で音楽グループをつくっていて CDも出しているらしい。自分のこどもに捧げる曲も作曲、日本に来たとき披露してくれました。今度はミュージックツアーも良いなあと思っている。

 
             
         
             
         
             
     

   
             
     
return